2013年1月25日金曜日

1月25日 小郡?から吉田?

広島から下関までの記録がないので確かな所はわからないが、
広島の町を出ると、間もなく道は二つに分かれ、
一つは小郡へ、もう一つは山口へ向かい、また吉田で合流して、
古い長府の町から下関へと続くのである。
何ぜ、彼らはこのような事になったのだろうか?
それは彼らの先頭に掲げられて進む一枚の制札に、次のように書かれていた。
「これらの者は、使節と称してルソンから来て、長く都にとどまり、

予のきびしく禁ずる神の教えを説いた。
これらとともに日本人も処刑するよう命ずる。やがてこの二十四人は、
長崎で磔刑に処する。予はここで、更めてこの教えを禁ずる。
もしこの禁令を踏みにじる者があれば、その家族もろとも、刑に処するであろう。
慶長元年十一の月二十日〔1597年1月8日〕
予とは、当時の権力者太閤秀吉である。
そこに指摘された理由はただ一つ、ただ単に宗教上のものであった。

キリストの福音を述べたが故に、処刑されるのである。
もし2010年の現在、国会でこのような法律ができたとしたら…。
最近「聖書」を破ってから歌い始めるロックバンドの人気が急上昇中という、

驚くべき事を聞いた。
神さまの教えに対抗する闇の力が形を変えて動き出している…。

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