2013年1月27日日曜日

1月27日 下関から小倉

いままで陸路を歩き続けてきた26聖人が、
ここで初めて、下関から海峡をわたり小倉で船をおりた。
これはおそらくこの旅で歩かない、唯一の日であっただろう。
腫れあがった足は休められたが、
その代わりに海を渡る潮風に吹きさらされて凍えきった。
すでにここからは九州、彼らのカルバリの丘の地である。
2月5日まであと9日!

2013年1月26日土曜日

1月26日 下関

26聖人といっても、正確には、ここ下関までは24人だった。
ところが、ここで彼らの数は増えていた。
というのは、ペトロ助四郎という京都の青年が加えられたからである。
彼は殉教者の中の3人のイエズス会士に同伴して世話をするよう、
オルガンティノ神父から遣わされていたのだった。
彼は道中での必需品を差し入れるための路銀を携えて、
我が身もかえりみず奉仕に努めていた。
たぶんこの頃からか明らかではないが、

京都のフランシスコ会に出入りしていた忠実な大工フランシスコも加えられて、
26人となったのである。
彼もまた殉教者たちの事を慕い続けて、身の回りの世話をしていたのである。
この二人は役人たちに、「自分たちも殉教者たちの仲間に加えてほしい」

と繰り返し願ったと言われている。
役人たちも彼らの持っていた財布に目をつけ、縄をかけたのであろう。
いずれにしても、彼らは喜んで縄を受け、殉教の恵みの中に加わった。


「われわれは一度は死ねべきものであるが、
信仰のために死ねのはなお価値があろう」と。

2013年1月25日金曜日

1月25日 小郡?から吉田?

広島から下関までの記録がないので確かな所はわからないが、
広島の町を出ると、間もなく道は二つに分かれ、
一つは小郡へ、もう一つは山口へ向かい、また吉田で合流して、
古い長府の町から下関へと続くのである。
何ぜ、彼らはこのような事になったのだろうか?
それは彼らの先頭に掲げられて進む一枚の制札に、次のように書かれていた。
「これらの者は、使節と称してルソンから来て、長く都にとどまり、

予のきびしく禁ずる神の教えを説いた。
これらとともに日本人も処刑するよう命ずる。やがてこの二十四人は、
長崎で磔刑に処する。予はここで、更めてこの教えを禁ずる。
もしこの禁令を踏みにじる者があれば、その家族もろとも、刑に処するであろう。
慶長元年十一の月二十日〔1597年1月8日〕
予とは、当時の権力者太閤秀吉である。
そこに指摘された理由はただ一つ、ただ単に宗教上のものであった。

キリストの福音を述べたが故に、処刑されるのである。
もし2010年の現在、国会でこのような法律ができたとしたら…。
最近「聖書」を破ってから歌い始めるロックバンドの人気が急上昇中という、

驚くべき事を聞いた。
神さまの教えに対抗する闇の力が形を変えて動き出している…。

2013年1月23日水曜日

1月23日 岩国から徳山

1月22日から26日までの殉教者たちの足どりは、はっきりした記録も見当たらないが、
パチェコ・ディエゴ神父の文献を繰ってみれば、だいたい次のように想像される。
〔参考文献:日本二十六聖人殉教記 永富映次郎著
22日は広島から岩国、23日は岩国から徳山、24日は徳山から小郡か山口?、
25日は小郡?から吉田?、26日は吉田?から下関というコースになりそうだ。
何しろ「日本二十六聖人」の記録は、外国人神父のものだけが唯一の手がかりで、
日本人側の記録が皆無だから、残念だが致し方ない。

1月9日堺を発ってから14日間、一日約30キロ〔普通に歩き続けて約8時間〕の道程を、ろくな食事も取らずに歩き続けた力は、神さまの特別な助けがあったとしか思えない…。
天国への凱旋、2月5日まであと13日だから、
このあたりが調度中間地点になる、正念場だ。

2013年1月21日月曜日

1月21日 広島へ


21日の夕暮れ、新しく「広島」と名付けられた城下町へ入った。1589年に築かれたばかりの城の主は、キリシタンの教会を目のかたきにしている毛利輝元だった。従って、殉教者たちに対する仕打ちも過酷なものだったと思われる。

広島と長崎、ともに被爆地としてオリンピックの共催なども叫ばれた。
長崎から広島へ。一度車で往復したけれど、本当に遠かった…私の運転では、夜の10時頃出発して、途中仮眠して朝の8時頃到着しと思う。こんなにも長い道を、歩きつづける…

2013年1月20日日曜日

1月20日 三原から西条へ

この三原城のすぐそばで生まれた人が、今浦上に住んでいる。先日書いた「尾道」の婦人のご主人で、この浦上の町を歩く時も、いつも神さまをほめたたえる賛美の歌を歌っている。家のそばを通る時も、賛美の歌の鼻歌が聞こえて来る時も…。今年は、ハンドベルにも初挑戦して、一途なひたむきな音色を聞かせてくださった。26聖人たちはもういないけど、こうして信仰は受け継がれて、信仰は今も息づいている。26聖人たちの真実な祈りと願いは受け継がれている。
26聖人たちは、この日、三原から西条への死出の旅路を続けている。厳しい寒気に凍えても、足がはれ、痛み、血がにじんでも、一日として旅の止むことはなかった。役人には死刑囚たちの健康はどうでもよかった。ただ死なないように運ぶのが彼らの役目なのだ。
この一行はその名の通り、沼沢地帯の沼田川を通って、また山の奥へと入って行った。広島まで二日の行程である。その行路の中ほどにある西条か、その少し先にある田万里で夜を過ごしたらしい。

2013年1月19日土曜日

1月19日 尾道から三原へ


尾道から海岸ぞいに10キロほど歩くと三原にたどり着く。この季節の海からくる潮風は身を切るほど冷たかった事だろう…三原城は今も駅のすぐ近くに残っている。もう20数年も前の事になるが、夫婦で近くの民宿に泊まって、この小さなお城を訪ねたことがある。当時の城主は、叔父の秀吉を関ヶ原で裏切り、家康についた小早川秀秋である。 この三原城で、19日の夜見張りの目を盗みながら、トマス小崎は、母に向けて手紙を書いた。
「神の御助けにより、この手紙をしたためます。パードレ以下われわれ24名は、列の先頭を行く札に書かれた判決文のように、長崎で磔刑を受けるため、ここまでまいりました。私のこと、ミゲル父上のこと、ご心配くださいませんように。パライソ天国ですぐお会いしましょう。お待ちしております。たとえパードレがいなくても、臨終には熱心に罪を痛悔し、イエズス・キリストの幾多の御恵みを感謝なされば、救われます。この世ははかないものですから、パライソの全き幸福を失わぬよう、努力なさいますように。人からどんなに迷惑をかけられても耐え忍び、すべての人に大いなる愛徳を施されますように。私のふたりの弟マンショとフェリペを、どうか異教徒の手に渡さぬよう、ご尽力下さい。私は母上のことをわれらの主にお
願いいたしましょう。母上から私の知っている人々によろしく申し上げて下さい。罪を痛悔するのを忘れぬよう、再び重ねて申し上げます。なぜなら唯一の重大な事なのですから。…安芸の国 三原城にて」

この手紙は、血に染まって殉教した父の衣服のふところから発見された。
この手紙が、お母さんに届いたのがどうかわからないが、こうして今400年の時をこえて私たちに語りかけてくれている。何が一番大切な事なのかを…。私も母となって、同じ年代の子供を持つ身として改めてこの手紙を読む時、悲惨さの向こう側に、こんなにもしっかりとした信仰に生きてくれている「我が子」からの手紙をもらったのだとしたら、トマス小崎のお母さんとってもうれしかっただろうなと想いをはせる。

2013年1月18日金曜日

1月18日 神辺から尾道へ


尾道から、長崎の私たちの教会に来て下さっている女性がいる。いつも月光仮面のように、風を切って自転車に乗って、神さまのために浦上の地を走っている。半世紀は生きているはずなのに、町の人からは「若い女の子」と間違われるほど足どりは軽い!
彼女の尾道の実家は、当時の国道で、何と26聖人が通った道ぞいにある!
彼らがキリストの福音を語りつづけた道…キリストを愛して歩き続けた道から、神さまは一人の人を選び出して、浦上で仕えるものとして下さった。
そして昨年末、今度はこの尾道で一人で暮らしておられた彼女のお母さんをかえりみて下さって、突然浦上に来られた。
そして今年2010年1月1日洗礼を受けられた。
26聖人の福音宣教に対する思いが実って、天国で喜びの歓声が上がったことだろう!

2013年1月17日木曜日

1月17日 

416年前の26聖人は今日どの辺りを歩いていたかというと…

1月17日 川辺川から七日町か神辺あたり

浦上の朝は早い。朝5時半、教会の鐘の音で一日が始まる。
私たちも神さまをほめたたえる礼拝から、新しい一週間が始まる。空は薄くもり

殉教者たちは、離れがたい明石掃部に別れを告げ、川辺川を後にして、当時安芸と呼ばれていた広島の山間部を越そうとしていた。それは、冬は雪に覆われる山々の間を流れる小田川に沿って登る道である。
17日の夜は、後に福山城が築かれるほどのその地方の中心で過ごしたと思われる。「福山」は今でも新幹線が止まるあの駅だろうか。大阪から下関まで、特に岡山、広島、山口の山陽・中国道は何度も車で走ったが、高速道路で時速100キロで走ってさえいつまで走っても終わらない…そんな気の遠くなるほど遠かったあの距離を一歩づつ進みつづける。

2013年1月16日水曜日

西坂の丘に向かって!


26人、初めは24人だった人たちが、京都で捕らえられてから、ずっと長崎の西坂の丘まで歩いて行くのですが、1597年の今日、1月16日は、どの辺りを歩いていたのかというと、岡山辺りだったと記録に残っています。

以下、抜粋します。

岡山を発つ。いずれの道中も、汚れ破れた着物に寒気と疲労、その上耳の痛み、足のはれに苦しんだ。
はれた足をひきずって歩く、最年長のディエゴ喜斉の心はうずいた。岡山付近の小さな村に、彼のなつかしい故郷の家があったから…。ここ数年神の道にいそしむ彼は、普通の旅行ならちょっとでも顔を見せられるのに、今はそれもゆるされない。自分で書き写したキリスト受難の小さな本だけが、彼に無限の力を与えて支えていた。
夕暮れ時、川辺川の岸にたどり着いた。この夜、3日間彼らを慕い警護をつとめた役人明石掃部は、次の役人に26人の親しい友を引き渡さなければならなかった。それは悲しく不安なものだった。生きて会う事はない彼らを、しかも敵に渡すのである。これからの道はキリスト教を嫌悪し続けてきた毛利藩の領地を通らねばならなかった。

2013年1月15日火曜日

今日は、西坂びより


天気は快晴
すがすがしい青い空で、こんな日は西坂に行きたくなる…


日本26聖人って、知ってますか?


成人の日だったので、26成人と思う人もいるかも知れないですね…
私も、結婚して長崎に来る直前まで全く知りませんでした。
受験で日本史を精一杯でやったけど、
学校では教わりませんでした。
でも、ほんとに知ってほしい、この国で起こった実話です。
これからの時代を生きていく私たちと子どもたちに、とても大切なメッセージがあるって思っています。



西坂は、今、JR長崎駅の近くにありますが、秀吉の時代は、処刑場だったそうです。
26人の人たちが、ただキリストを信じているという理由だけで、十字架の上で槍で刺されて殺されていったのですが、それが、どういう訳か悲惨な暗さではなく、さわやかな喜びの中で死んでいったということなのです。銀の鈴のような歌声で、賛美の歌を歌いながら…



1597年2月5日の事でした。その秘密を探りながら、今年も2月5日を迎えるにあたって、少しづつでも、ブログを書いて行けたらと思っています。