2013年2月3日日曜日

2月2日 山本村から伊万里へ

唐津の町から少し離れた山本を出発した長い行列は、伊万里に向かって進んだ。半三郎は、彼らが弱り切っていたので、かごを準備させて山越えをした。夕方伊万里に着いた。そして3日の夕方にはもう武雄に着いた。この肥前の国は、以前から教会を目の敵にしてきた鍋島藩の領地であった。今の佐賀県にあたるが、九州で唯一キリストを拒み受け入れなかった地である。 この危険な敵地を無事に通り過ぎる事は、引率者の半三郎をはじめ皆の不安と苦悩の種であったに違いない。
実はこの地方から、数年ほど前この浦上の地に、二人の若者がやってきた。ひとりは今宮崎で牧師をしているが、もうひとりはこの冬に長崎の地で牧師となった。殉教者たちの涙の祈り、行進は確かに覚えられていて実を結び続けている。

2013年2月1日金曜日

2月に入った。
長崎は冷たい雨が降っています!
昨日までは、ポカポカの暖かい西坂日和でしたが…

26聖人たちの2月1日は、 博多から唐津、 山本村でした。

2月1日 唐津から三里離れた名護屋で、寺沢半三郎は長崎で磔刑に処する旨の秀吉の命令を受けとった。半三郎は、唐津城主で長崎奉行の寺沢広高の弟で、死刑執行人代理者となった。この半三郎が、「50本の十字架を用意せよ」との命令を伝える使者を長崎へ遣わした。
長崎の信者はその知らせを聞いて、騒ぎになった。囚人が24人ならおかしい、残りの十字架は誰のためだろう。そこで、彼らはみな熱心に死の準備をした。これは半三郎の最初の失敗だった。信者に恐れさせようとしたが、逆に彼らの信仰を燃え立たせる結果となってしまったからである。
この日26人の一行は山本村で半三郎にひき渡されるのである。ここは、12歳の少年ルドビコ茨木が神さまを選んだ場所である。

2013年1月27日日曜日

1月27日 下関から小倉

いままで陸路を歩き続けてきた26聖人が、
ここで初めて、下関から海峡をわたり小倉で船をおりた。
これはおそらくこの旅で歩かない、唯一の日であっただろう。
腫れあがった足は休められたが、
その代わりに海を渡る潮風に吹きさらされて凍えきった。
すでにここからは九州、彼らのカルバリの丘の地である。
2月5日まであと9日!

2013年1月26日土曜日

1月26日 下関

26聖人といっても、正確には、ここ下関までは24人だった。
ところが、ここで彼らの数は増えていた。
というのは、ペトロ助四郎という京都の青年が加えられたからである。
彼は殉教者の中の3人のイエズス会士に同伴して世話をするよう、
オルガンティノ神父から遣わされていたのだった。
彼は道中での必需品を差し入れるための路銀を携えて、
我が身もかえりみず奉仕に努めていた。
たぶんこの頃からか明らかではないが、

京都のフランシスコ会に出入りしていた忠実な大工フランシスコも加えられて、
26人となったのである。
彼もまた殉教者たちの事を慕い続けて、身の回りの世話をしていたのである。
この二人は役人たちに、「自分たちも殉教者たちの仲間に加えてほしい」

と繰り返し願ったと言われている。
役人たちも彼らの持っていた財布に目をつけ、縄をかけたのであろう。
いずれにしても、彼らは喜んで縄を受け、殉教の恵みの中に加わった。


「われわれは一度は死ねべきものであるが、
信仰のために死ねのはなお価値があろう」と。

2013年1月25日金曜日

1月25日 小郡?から吉田?

広島から下関までの記録がないので確かな所はわからないが、
広島の町を出ると、間もなく道は二つに分かれ、
一つは小郡へ、もう一つは山口へ向かい、また吉田で合流して、
古い長府の町から下関へと続くのである。
何ぜ、彼らはこのような事になったのだろうか?
それは彼らの先頭に掲げられて進む一枚の制札に、次のように書かれていた。
「これらの者は、使節と称してルソンから来て、長く都にとどまり、

予のきびしく禁ずる神の教えを説いた。
これらとともに日本人も処刑するよう命ずる。やがてこの二十四人は、
長崎で磔刑に処する。予はここで、更めてこの教えを禁ずる。
もしこの禁令を踏みにじる者があれば、その家族もろとも、刑に処するであろう。
慶長元年十一の月二十日〔1597年1月8日〕
予とは、当時の権力者太閤秀吉である。
そこに指摘された理由はただ一つ、ただ単に宗教上のものであった。

キリストの福音を述べたが故に、処刑されるのである。
もし2010年の現在、国会でこのような法律ができたとしたら…。
最近「聖書」を破ってから歌い始めるロックバンドの人気が急上昇中という、

驚くべき事を聞いた。
神さまの教えに対抗する闇の力が形を変えて動き出している…。

2013年1月23日水曜日

1月23日 岩国から徳山

1月22日から26日までの殉教者たちの足どりは、はっきりした記録も見当たらないが、
パチェコ・ディエゴ神父の文献を繰ってみれば、だいたい次のように想像される。
〔参考文献:日本二十六聖人殉教記 永富映次郎著
22日は広島から岩国、23日は岩国から徳山、24日は徳山から小郡か山口?、
25日は小郡?から吉田?、26日は吉田?から下関というコースになりそうだ。
何しろ「日本二十六聖人」の記録は、外国人神父のものだけが唯一の手がかりで、
日本人側の記録が皆無だから、残念だが致し方ない。

1月9日堺を発ってから14日間、一日約30キロ〔普通に歩き続けて約8時間〕の道程を、ろくな食事も取らずに歩き続けた力は、神さまの特別な助けがあったとしか思えない…。
天国への凱旋、2月5日まであと13日だから、
このあたりが調度中間地点になる、正念場だ。

2013年1月21日月曜日

1月21日 広島へ


21日の夕暮れ、新しく「広島」と名付けられた城下町へ入った。1589年に築かれたばかりの城の主は、キリシタンの教会を目のかたきにしている毛利輝元だった。従って、殉教者たちに対する仕打ちも過酷なものだったと思われる。

広島と長崎、ともに被爆地としてオリンピックの共催なども叫ばれた。
長崎から広島へ。一度車で往復したけれど、本当に遠かった…私の運転では、夜の10時頃出発して、途中仮眠して朝の8時頃到着しと思う。こんなにも長い道を、歩きつづける…